木立を代表するのが、いわゆる鎮守の森、神域として残っているところだ。辺り一帯を開墾しても、すべて森を拓き本を切り倒したのではなく、神々が住まうところをきちんと残しておくという節度が、大昔の開墾にはきちんとあった。和歌山県の紀伊半島先端部では、海に面した印象的な照葉樹林を見たことがある。周参というところに泊って、暖地性の植物性群落のある稲積島というところを歩いたのだが、ここも小島全体が神域のようであった。
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西南日本の照葉樹林に対し、東北日本を代表する植生は落葉広葉樹林。いわゆる武蔵野の雑木林もこれですね。関東の西部に属する山梨県も、とても落葉広葉樹が多い。だから静岡から山梨県の甲府盆地辺りまで来ると、ずいぶんと風景が異なって見えるものだ。さらにずっと北上を続けると、盛岡と青森の間にある北緯40度線付近で、植生は劇的変わる。いかにも最果てに来たのだなあという感じになる。走っているうちに植生の変化が感じ取られるようなサイクリングは、もうツーリングの部類であろうから、木々の風貌もまた地域地域で異なることは実に面白い。私など学問的にどこうということよりも、ただただ、木というものは人間にない徳分かあるのだなあと感に打たれているだけなのだが。木というものは歩きも喋りもしないし、こちらがいくら素晴らしく思っていても手を差し出して握手してくれるわけではない。しかしどんな木も例外なく、太陽天を恐れずに、まっすぐに上方を目指してゆく。だが地から離れて浮遊するわけではない。一方では暗い大地の中に己の根を伸ばして上方へと伸張する土台を自ら築き、大地から滋養を受け取るとともに、己の生をまっとうした後は、ほかの樹や生命を支える滋養となる。木が美しいのは、そういう理由からかもしれない。